10年来の街路事業が実現し、ついにホテル青木へ
芸者の置屋からスタートした木賃宿
伊那市で旅館を始めたのは、私の親父です。親父は、いわゆる兵隊さん。海軍の経理学校に勤めていて、私の子供の頃は各地を転々としました。中学校は海軍のあった横須賀(神奈川県)。小泉純一郎さんなどが学んだ横須賀中学に通っていました。
長野県に来たのは、戦後、パージ(公職追放)されたことが理由です。当時、移り住んだのは、空き家になっていた芸者の置屋。2階に畳の部屋が6部屋あったことから、いまで言う木賃宿のような商売を始めました。5~6部屋ぐらいの下宿屋のような宿が周辺にいくつかありましたけれど、いまはもう全部営業を止めちゃって、当時から残っているのはウチだけです。
ホテル青木として再出発「城取、頼むぞ」
改築をして本格的な旅館になったのは、昭和20年代。
城取設計の先代(故・城取義直)とは、ウチのすぐ裏に事務所を構えたことで、親しくさせていただいていました。
私は公務員をしていて、山梨県庁を経て長野で土木の担当をしていたのですが、昭和40年代に入ると、街路事業の話が持ち上がっていました。再開発によってホテルを建築できれば…と思っていたのですが、反対意見も多くて、なかなか話が進まない。事業委員長が替わっても全然進展がないものだから、同業の伊東館さんと一緒に「穴を空けようじゃないか」と、半ば強引に建物を取り壊し、「城取、頼むぞ」と、ホテルの設計を先代に依頼したのです。
素人の意見にもじっくりと耳を傾けてくれた
10社以上の入札の中設計士にも相談
面白いもので、そうして実際に動くと話がうまくまとまるんですね。10年で何も進まなかった話が、いっぺんに進むようになって都市計画ができあがりました。
実際に建築することが決定した後には、私が土木担当だったご縁なのか、ありがたいことに建築会社の入札の際には10社以上が手を挙げてくださいました。最終的には山浦鉄工さん(現株式会社ヤマウラ)にお願いをしたのですが、決める際には設計担当者にもご相談をさせていただき、アドバイスをもらったことを覚えています。
城取設計の設計士は、素人の私共がガタガタと意見を言ってもじっくりと聞いてくれて、そのおかげで希望通りのホテルになりました。
1年間の期間を経て、ホテル青木ができあがったのは1981年の9月のこと。オープンの際には山浦さんご兄弟が引っ越しを手伝ってくれたことを嬉しく思いました。
完成したホテルは、当時としては珍しい鉄骨造の5階建て。決して敷地が広いわけではなく、取り壊しや施工も大変で、建築途中の鉄骨を見て圧倒されたような気分にもなったものです。
代替わりしても地元への愛は不変
当時、最も好評だったのは、大金を投じて造った大浴場でした。温泉と同じで24時間透き通るような綺麗なお湯に浸かることができると、好評でしたね。学生さんや団体さんはもちろんのこと、一般のお客さんからも「こりゃあいい」とお褒めの言葉をいただきました。
現在は、長男が跡を継いでいますが、私共以外にも代々続いている地元の商売はたくさんあると思います。若い人たちにどんどん活躍してもらって、いいものは残し、新しいものは採り入れていくという気風が根付いていくといいですね。